本記事はいわゆるオタク長文です
思想的な話も含みます。そうした文章が合わない方はブラウザバックをしてください。
基本的には僕の独りよがりです、やりたいことをやるべきだと思って書きました。
ライブ前が一番不安だったまである
2nd Liveのキービジュアルが公開された時、思わず「え? 本気?」って声に出しちゃったんですよ。
アイドルが軍服風ファッションをするのはよくあることです。しかし過去にはナチスに寄せすぎて炎上したケースがあったことを、インターネットに生きる我々が知らないはずもありません。「名取も『軍服風ファッションカッコいいから』くらいの理由で、この衣装を作ったのか?」とも一瞬疑いました。でも、同時に発表されたライブタイトルが『独ゼン者』だったじゃないですか。
あの時代の独裁者を連想させる衣装を纏い、それを想起させるタイトルを冠して、名取さなになんの意図もないなんてことは、絶対にありえない。21世紀のコンプラ意識において、この表現がかなり危険なラインであることを理解できない名取さなではないでしょう。
キービジュアルの段階で「名取さなはこのくらい過激な表現を選んでも伝える話がある、周囲の大人もそれを許した」のです。そこにあったのは不退転の決意であり、キービジュアルはそれを表明していたのでしょう。
僕が不安だったかどうかで言えば、ものすごく不安で、結果として配信チケットを買ったのは開始3日前でしたよ。

ライブでのメッセージを受けて思う

実際の『独ゼン者』はと言うと……確かにそこには名取さなの伝えたいメッセージが存在し、そのためにステージのすべてがあった素晴らしいライブでした。カリスマ(独裁者)を模倣するファッションで、徹底して自己のアイデンティティや自分らしさについて歌い続け、「これはみんなの話」だと伝えるアプローチ、その意図されたであろう『落差』は衝撃的でした。

優しく言えば「自分らしく生きていこう。インターネットで相互のフォロワーとかはちゃんと応援してくれるよ」という話を、懇切丁寧に何曲も使って語りかけてくるようなライブ。と言うのが初見時の感想になります。
名取の人生の主人公は名取だし、みんなの人生の主人公はみんなですよね? だから他人に何を言われようが、どう思われようが、自分の足で自分の人生を歩んでいってほしい(中略)この曲が、このライブが、名取の独りよがりだと言われても、そんな事は名取には関係ないし、やりたいことをやるぞ! という気持ちで、今回『独ゼン者』というライブタイトルをつけました。

しかし、このメッセージを2025年の現在に改めて掲げることの意味を考えなければなりません。名取さなが普段から掲げる「丁寧なインターネット生活」というキャッチフレーズ。これには現代のインターネット構造そのものへの抵抗が含まれていると考えます。
Twitter(現X)に代表される現代のSNSは、エコーチェンバー現象が起きやすい構造を持ちます。アルゴリズムは我々に「共感できる意見」ばかりを提示し、気づけば偏った思考と思想の渦に飲み込まれている。そんな環境の中で「自分の意見、自分そのものを持ち続ける」ことは、想像以上に強烈な自我を必要とします。『独ゼン者』で語られた「自分の人生を自分で生きる」というメッセージは、まさにこの時代だからこそ必要なものであり、要するにいつも通り「丁寧なインターネット生活をしろ」と言われているだけ……とも解釈できます。つまり「名取は特別なことをライブで伝えたのではなく、いつも通りのことを言葉を変えて(あるいは強い言葉で)伝えてきたのではないか」と僕は考えています。


『アングルナージュ』とその直後のMCは、かなり直接的にその話をしています。
アーティストはメッセージを発するものだし、我々もアーティストにメッセージを送っている

名取さなは最近、自己紹介で堂々と「アーティスト」と名乗っています。そして「クリエイター」にせよ「アーティスト」にせよ、なにかを表現する以上、我々に伝えたいメッセージや思想がないということはありえません。当然、そこには個人的な主義主張(当然ポリティカルなものも含め)が内包されます。
音楽ライブは、アーティストから大衆へ向けられた一方的なエンターテイメントではありません。アーティストに対して大衆が、 普段から演奏している音楽への共感を示す場でもあります。そもそも消費者は消費活動を通じて「あなたのコンテンツに興味がある」とクリエイターに意思を示すもので、本も音楽もYouTubeだってそうです。クリエイターと消費者は、互いにメッセージを与え、互いに影響し合うものです。現実は創作に影響を与え、創作は現実に影響を与える。我々の社会はそうやって進歩してきた歴史を持ちます。

ロックミュージックの歴史がそうであったように、アーティストの主張に対し、大衆が拳を突き上げて同意を示すことでメッセージは完成します。名取さなが生バンドを従えたロックミュージック主体のライブステージを用意したのは、メッセージ発信者としての意思の表示であると考えていいように思えます。
そのライブで「ついて来たいヤツはついてこい」なんて直接的に言わせてしまったのは、我々がまだまだ名取さなに信頼されていない証左ではないか、という反省があります。名取は事前にライブテーマを持つ曲を3曲も公開しており、とくに『アウトサイダー』はかなり直接的です。そこまでしてくれていた。歌う名取本人を見て、我々がついていくか立ち去るか決めるだけの場にする――それでも良かったはずです。なのにわざわざMCで説明してくれるあたり、名取は親切だし、我々は弱い……!
我々(クソでか主語なので、いつもどおり「僕」にするべき)は名取さなのメッセージとどうつきあうべきか


思えば名取さなは我々に何度も何度も、信じられないくらい真摯に、歌で語りかけてきた人物です。『メチャ・ハッピーショウ』『ゆびきりをつたえて』『きらめく絆創膏』……。そして今回の『サナトリック・ウェーブ』『独ゼン者』で「歌で伝えることそのもの」を主題にしていたわけです(なのにMCで説明させてしまった)。
もし名取さなに同意するなら、今度は僕(我々)が名取さなに人生を見せるべきでしょう。もちろん同意しない人もいるでしょう。それでもいいのです。なぜなら我々と名取さなの関係は対等であり、付き合い方は我々が決めて良いのだから。それでも気が向いたら、ともに「きらめきのかすめ取り」をしましょう。

優しい言葉をかけてくれる推しに依存するのでもなく、SNSのタイムラインに流されるのでもなく、自分の人生の主人公として生きる者同士が、互いの生き様に共感し、応援し合う関係性。名取さなが求めているのは、そういう対等な関係なのではないでしょうか。僕はそう思いました。


我々は「ただ消費する観客」ではなく「自分の意思で立つ表現の受け手」なのです。名取さなのメッセージに共感するなら、それを自分の人生に活かす。共感しないなら、自分の道を行く。そのどちらも、自分で選択することに意味がある。
『独ゼン者』というタイトル、あの衣装、そしてライブ全体を通じて提示されたテーマ。それらすべてが示しているのは、名取さな自身が「独ゼン的」と言われようとも、自分の表現を貫く覚悟を決めたということです。そして我々にも、同じように自分の人生を貫いてほしいと願っている。お前もまた「独ゼン者」であれ、と。


このライブは、アーティスト・名取さなの不退転の意思表明であると同時に、我々ファン一人ひとりへの問いかけでもあったはずです――あなたは自分の人生の主人公として生きているか? と。
その問いに、どう答えるか。それは我々一人ひとりが決めることでしょう。

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