2020/08/30

霧と雨/1010hPa/体調:腹痛

腹痛に苦しんでいる(現在進行系で)。久しぶりにかなりきついですね。夏場に下痢をすると脱水が怖い。僕はかなりお腹が弱いので、難儀してます。

観た。

『仮面ライダーゼロワン』最終話。仮面ライダーがなにをなしてどういう存在なのかとか、別に議論してないのに、最終回のそのタイミングでその話をするのと普通に驚いちゃった。正直あの台詞でなにをいいたかったのか全然理解してないです。こう言う枝葉はおいておいて、本筋の話。基本的には「滅が自分に感情がある事を自覚していたと吐露する」「その感情の中には恐怖と言うものが含まれている」を或人が受け入れ「絶対に乗り越えられる、心があるとわかったのなら」と色々な形を持って語りかける話ですね。僕個人としては「苦しみを乗り越えられると言う前提は残酷すぎる」とも思うんですが、番組のゴールとしては綺麗なんではないでしょうか。案の定「この世で唯一人、滅には心がある事を理解している或人が、心のあり方を持って滅を止められる」と言う物語ですし。
絵としては「ヒューマギアである父親に心の強さを託された或人が、父親でもあるヒューマギアの滅の心の強さを信じる」と言うもので、話の流れそのものは良かったんではないかと思います。ただこれをやるなら、或人と父親の物語をTVシリーズでもう少し掘り下げてほしかったと思うなー。

イズの復活というか、イズ2号に関してはやはり「それでいいのか?」と言う疑問が残ってしまう形になりました。なんでこんな引っかかるかと言うと、少なくても終盤は明らかにヒューマギアを「人格ある種族」として描いており「そして彼らは人間に道具ではなく人間の様に扱いされることを望んでいる」のを示唆していたからだと思うんですよね。プラカードで人権活動しちゃったわけだし。だけど或人と言うキャラクターは一貫してヒューマギアを人間扱いしたことはないんですよね。なんでまあ……その……たぶん或人はイズとイズを別人格だと割り切って今後付き合っていくルートに行くんではないかと言う結論になりました。
これを我々視聴者がどう解釈するべきなのかは、かなり悩ましい所なんですよね。こう。理想のイズを目指して今後もイズを教育していくと言う流れでもあるので、どうにも忌避感が生まれてしまう。「死んだ人間を模したヒューマギアを制作するのは禁止されている」わけで「心を持った個性あるヒューマギアのほぼほぼ完コピーのヒューマギアを再生させるのはありなのか?」が社会問題になりかねないんですよね。人間ならダメでヒューマギアならOKになる根拠はなんだ? これのアンサー「ヒューマギアは工業製品だからOK」と言う身も蓋もないところにあるはずなんですよね。過去、或人は何度もヒューマギアを再生させた上で、2話にはもう「別個体として割り切った上で、前の個体の思い出を投影している」んですよね。SFだ……。どうにも「父親の事があってなお、ヒューマギアに人格があると理解しきった上でなお、ヒューマギアを道具として扱う事への抵抗のない或人」と言うキャラ造形が理解しづらい所、ありますよね。

今後ゼロワン世界の課題は「ヒューマギアには心が発生するとわかった」上での「ヒューマギアをどう扱うべきなのか、社会はどうあるべきなのか」に踏み込んでしまうはずで(番組終盤はそれを示唆していたわけだから)かなり積極的な議論が行われるんじゃないですかね……ヒューマギアに感情がある以上は、ヒューマギアの感情を考慮した社会倫理を生み出さなくては、またヒューマギアが人類を滅ぼそうとする危険が大いにあるわけで。でもあの社会、あんなに労働用ロボットが普及しているのに、労働用ロボットが仕事をこなすことの倫理をいまだ解決していないんですよね……不安だ……。

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